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原爆の過ちを訴え続けた米国人(3)



帰国して3年後の1949年、オダネルさんは、アメリカ情報局に勤務しました。

大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めました。

最初に担当したのは、日本への原爆投下の決定を下した「トルーマン大統領」でした。

トルーマン大統領は、日本に原爆投下したことについて「原爆投下は、戦争を早く終らせる為だ。多くの若いアメリカ兵の命を救う為だった」と語っています。

1950年、オダネルさんは、一度だけ、自分の思いをトルーマン大統領にぶつけました。

録音テープより・・・「『大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは、日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか?』 彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は、前の(ルーズベルト)大統領から単に引き継いだだけだ』」

核戦略を進めていたルーズベルト大統領が、1945年4月12日に突然に脳卒中で亡くなり、副大統領だったトルーマンが、急遽、大統領に昇格したのでした。

母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た原爆が人間にもたらす現実を知ったオダネルさんは、苦悩を深めていきました。



1989年、そんなオダネルさんの運命が変わります。

オダネルさんは、偶然に立ち寄った修道院で、そこに飾られていた「反核運動の彫像」に出会います。

彫像の全身には、被爆者の写真が貼られていました。

腰には、爆心地を彷徨う二人の写真が。

右腕には、列を成す傷ついた人々の写真が。

録音テープより・・・「私は、彫像を見て衝撃を受けた。罪のない被爆者達の写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。その多くは女性であり、子供達だった。それを見た時の気持ちは言い表せない。長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。まさに啓示だった。自分も、撮影した真実を世界に伝えなければならないと」

オダネルさんは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。

「長崎」と記されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。

トランクの中にあった原爆の写真を並べ始めたオダネルさんの姿に、家族は衝撃を受けます。

オダネルさんの息子のタイグ・オダネルさんは「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。母にはショックが大き過ぎたんです」と、その時の様子を語っています。



毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。

高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。

退役軍人の一人は「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」と語っています。

その頃、オダネルさんの体を異変が襲います。

背骨の痛みと変形、そして皮膚ガン。

オダネルさんは、原爆による症状だと確信しました。

録音テープより・・・「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」

オダネルさんは、原爆による被害だとアメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。



1990年、オダネルさんは長崎の写真を引き延ばし、アメリカの各地で写真展を試みました。

しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、殆どありませんでした。

本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社全てに断られました。

終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真展も、地元の退役軍人の激しい反対で中止に追い込まれました。

家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルさんを批判する投書も目立つようになりました。

幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊し、妻のエレンさんは、夫の行動を理解できずに離婚しました。

母国であるアメリカで、オダネルさんは孤立を深めていきました。

録音テープより・・・「どうか誤解しないで欲しい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし、国の為に戦った。しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。私は、あの場所に居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。しかし、あの小さな子供達が、何かしただろうか。戦争に勝つ為に、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。それは、100年経っても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」



オダネルさんは、70歳を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。

そして、オダネルさんは長崎を訪れ際、以前に撮影した被爆者との再会を果たしていました。

救護所で見た背中が真っ赤に焼きただれていた少年は、幸いにも一命を取り留めていたのです。

オダネルさんは、その少年だった谷口稜嘩(すみてる)さんと10年に渡って交流し、共に日本で原爆の過ちを訴えて回りました。

谷口さん自身も、原爆投下後の地獄を語ることを「生かされた者」の使命として背負い続けました。

2010年には、被爆者代表として出席したニューヨークの核拡散防止条約再検討会議において、各国代表の前で「真っ赤な背中の少年」と題された自身の写真を掲げ、原爆の恐ろしさを訴えました。

オダネルさんが最も気にかけていたのは、「焼き場に立つ少年」でした。

谷口さんと同じように再会できないかと、日本で写真展を開きながら、オダネルさんは少年の行方を探し続けたといいます。

録音テープより・・・「私は、少年を必死に捜した。日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。少年は、あの後、一人で生きていったのだろうか。ついに、彼に会うことができなかった」



日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルさんの病状は悪化していきました。

背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。

そして2007年の夏、ジョー・オダネルさんは、85歳で息を引き取りました。

その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ「8月9日」でした。

残されたテープを聞いていく中で、息子のタイグさんは、父の思いを知ることになります。

録音テープより・・・「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やって来る。嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。『お前は裏切り者だ』、『アメリカが嫌なら日本に行け』と。ある時、娘が教えてくれた。『お父さんの活動に、味方する投稿が一つだけあるよ。それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。『オダネルを批判する人達に言いたい。まず図書館に行け。私がしたように。原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』 私はそれを読み、こりゃ素晴らしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。息子が、私が日本に居た時と同じ、23歳の頃だった。その後、息子はこう言ってくれた。『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和の為に、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

息子のタイグさんは「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。父の写真は、アメリカに複雑な感情を抱かせる。けれど父は、目撃してしまった。その記憶に突き動かされたのだ。もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」と語っています。

母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。

その遺志を汲み、タイグさんは、全米に向けて父の写真を公開しました。

写真に、批判の声が集まり始めます。

「広島と長崎への原爆投下は、必要だった」、「謝る必要なんてない」・・・

しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。

「長崎の少年を見ました。悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした」

イラク帰還兵からは「この写真は、戦争の現実を伝えている。もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない」

写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。

母のエレンさんからでした。

離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。

「お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。しかし、私にはまだ、ジョーが何故トランクを開け、母国を告発したのか解らないままです。ただ、これだけは確かです。彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。そして、その写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです」



ジョー・オダネルさんの死から1年たった夏、長崎の原爆資料館で初の写真展が開催されました。

遺族として招かれたタイグさんは、会場で谷口稜嘩さんと初めて会うことができました。

谷口さんが「今現在の背中です。新しいあとは、去年手術したんです」と、自分の背中を見せてくれました。

タイグさんは遊んでいる子供達にカメラを向けながら「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。『いつか長崎で、笑顔の子供を撮りたい』と。それに応えたいと思ったんです」と語りました。

原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた長崎。

30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを訴えています。

録音テープより・・・「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。アメリカという陸にも、届く日が来る。誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」




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テーマ : 戦争・原爆
ジャンル : 政治・経済

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感謝

福島第一原発事故の際にアメリカ海軍の兵士達が支援活動中に放射能汚染にあったというニュースがありました。
長崎や広島の爆心地で記録写真を撮っていたオダネルさんが、放射能汚染に遭っていたとしても不思議ではありません。
自国民から誹謗中傷を浴び、奥さんとの離婚も経験されながら、それでも核兵器の過ちを訴え続けてくださったご苦労には、感謝の気持ちでいっぱいです。
一方で、世界で唯一の被爆国でありながら、日本政府が核兵器禁止文書に賛同しないのは、原爆で亡くなった国民に対する裏切り以外の何物であもありません。

Re: 感謝

>ジョンパパさん
ジョンパパさんが仰るとおりです。
オダネルさんの訴えには、日本人の一人として感謝の気持ちでいっぱいです。
一方で、世界で唯一の被爆国でありながら、核兵器禁止文書に賛同しない日本政府には心の底から怒りを覚えます。
大量破壊兵器が無いことが判っていながら、石油利権の為にイラクに戦争を仕掛けたブッシュ政権を、日本の小泉政権は支援しました。
更に、アメリカの言いなりになっている安倍政権は、再び日本を戦争のできる国に変えようとしています。
こんなお馬鹿さん達が権力を握ったばかりに、日本は再び戦争に関与しようとしています。
まさに第二次世界大戦で尊い命を亡くされた日本国民に対する裏切り行為に他なりません。
プロフィール

カリーノパパ

Author:カリーノパパ
●シェリー(シェルティー母):
 とっても優しい理想的な家庭犬
 アンジェの母親です

2016.4.18永眠、享年15歳11ヶ月

●アンジェ(シェルティー娘):
 ボール遊びと食事が大好きです
 我が家で生まれました

2018.5.5永眠、享年14歳10ヶ月

●カリーノ(ラフコリーの女の子):
 ショードッグ
  【主なタイトル】
 JKCチャンピョン
 FCIインター・チャンピョン 
 【主な賞歴】
 2009年アジアインターBOB
 2010年ジャパンインターBOB
 2010年近畿インターBOB
 2010年東北インターBOB 
 2010年ペディグリーアワード
 【資格】
 JKC訓練資格CDⅠ

2014.12.9永眠、享年8歳5ヶ月

●ミシェル(ラフコリーの男の子):
 陽気で優しく、人が大好きです
 ショードッグ
 【主なタイトル】
 JKCチャンピョン
 【主な賞歴】
 2011年神奈川インターWD
 2014年熱海愛犬クラブ展WD
 2014年山梨東ドッグコ展WD
 2015年沼津愛犬クラブ展WD
 【資格】
 JKC訓練資格CDⅠ

2020.11.08、享年11歳3ヶ月

●カリーノパパ(人間):
 ミシェル達のお父さん
 本職は建築家(一級建築士)
 犬、スキー、ゴルフ、車、絵画が大好き
 1974年から大手建設会社の設計部にて勤務
 1986年に海外部門に異動し、14年間海外勤務
 内13年間をロンドンにて勤務
 2012年に大手建設会社を定年退職
 同年5月から河口湖でスローライフ開始

●訪問ありがとうございます。
4頭の犬と一緒に暮らしながら、日々感じたことを綴っています。
ミシェルとミシェルのお父さんであるカリーノパパが、記事やコメントを書いています。

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