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2019年BBQパーティー(2)



今年は、日本に100頭位しかいない珍しいワンちゃんも参加してくれました。

アイリッシュ・ウルフ・ハウンドのデエースちゃん(1歳半の女の子)です。



アイリッシュ・ウルフ・ハウンドはアイルランド原産で、子馬のように大きな世界最大のワンちゃんです。

デエースちゃんも体重が既に45㎏ありますが、母親と同じように、60㎏近くになる可能性があるようです

ちなみに、男の子だと体重が80㎏を超え、2本足で立つと身長が2mを超えるそうです。



デエース(Deesse)とは、フランス語で「女神」を意味します。

「女神」という名前に相応しく、デエースちゃんは大変おとなしく、誰にでも優しく接してくれます。

ミシェルのお父さんも、デエースちゃんのリードを持って、一緒に散歩しました



上の写真のブルーマールのラフ・コリーとトライのスムース・コリーは、デエースちゃんと一緒に暮らしています。

二人とも、デエースちゃんと同じく、大変おとなしく、優しい子でした。



今年は、ダルメシアンも参加してくれました。

多くのワンちゃんが参加し、初対面のワンちゃんもいるにもかかわらず、全員が、喧嘩もせずに仲良く遊べるのは凄いことだと思います。

一緒に楽しく遊んでいるワンちゃん達の様子を見ると、人間も幸せな気持ちにしてくれます



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テーマ : 犬との生活
ジャンル : ペット

2019年BBQパーティー(1)



今年も、夏恒例のBBQパーティーが、ミシェルの実家で開催されました。



今年は、お友達のリーちゃん&ベルちゃんファミリーもお誘いしました。

リーちゃんとベルちゃんは初めて来た場所だったこともあって、最初は少し緊張気味でしたが、慣れると動き出し、他のワンちゃん達と楽しそうに遊んでいました



今年も多種多様な食材を準備してくださいました。

お肉、玉ねぎ、カボチャ、ナス、トウモロコシ・・・



手羽焼き、串焼き、イカ焼き、ソーセージ・・・



炭で焼かれた食材が、次々とお腹に入っていきます



今年は、厚焼きステーキとホタテの醤油焼きもありました



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テーマ : 犬との生活
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原爆の過ちを訴え続けた米国人(3)



帰国して3年後の1949年、オダネルさんは、アメリカ情報局に勤務しました。

大統領の専属カメラマンに抜擢され、ホワイトハウスで働き始めました。

最初に担当したのは、日本への原爆投下の決定を下した「トルーマン大統領」でした。

トルーマン大統領は、日本に原爆投下したことについて「原爆投下は、戦争を早く終らせる為だ。多くの若いアメリカ兵の命を救う為だった」と語っています。

1950年、オダネルさんは、一度だけ、自分の思いをトルーマン大統領にぶつけました。

録音テープより・・・「『大統領、私は長崎と広島で写真を撮っていました。あなたは、日本に原爆を落としたことを後悔したことはありませんか?』 彼は動揺し、顔を真っ赤にしてこう言った。『当然それはある。しかし、原爆投下は、私のアイディアではない。私は、前の(ルーズベルト)大統領から単に引き継いだだけだ』」

核戦略を進めていたルーズベルト大統領が、1945年4月12日に突然に脳卒中で亡くなり、副大統領だったトルーマンが、急遽、大統領に昇格したのでした。

母国アメリカが推し進める核戦略と、長崎で見た原爆が人間にもたらす現実を知ったオダネルさんは、苦悩を深めていきました。



1989年、そんなオダネルさんの運命が変わります。

オダネルさんは、偶然に立ち寄った修道院で、そこに飾られていた「反核運動の彫像」に出会います。

彫像の全身には、被爆者の写真が貼られていました。

腰には、爆心地を彷徨う二人の写真が。

右腕には、列を成す傷ついた人々の写真が。

録音テープより・・・「私は、彫像を見て衝撃を受けた。罪のない被爆者達の写真が、彫像の全身に貼られていたのだ。その多くは女性であり、子供達だった。それを見た時の気持ちは言い表せない。長崎の記憶がよみがえり、とても苦しくなった。しかし私は、何かしなければと痛烈に感じた。まさに啓示だった。自分も、撮影した真実を世界に伝えなければならないと」

オダネルさんは屋根裏部屋に行き、43年ぶりに、トランクを開けました。

「長崎」と記されたネガは、朽ち果てることなく、当時のまま残っていました。

トランクの中にあった原爆の写真を並べ始めたオダネルさんの姿に、家族は衝撃を受けます。

オダネルさんの息子のタイグ・オダネルさんは「ある日、母が家に帰ってきたら、トランクを開けた父が、台所に原爆の写真を並べていたんです。被爆者や爆心地の写真から、母は目を背けました。母にはショックが大き過ぎたんです」と、その時の様子を語っています。



毎年5月、ワシントンでは、退役軍人による記念パレードが行われます。

高齢となった退役軍人は、その多くが、今なお、原爆投下の正当性を信じています。

退役軍人の一人は「原爆は、日本の真珠湾攻撃と比べても悪くないだろう」と語っています。

その頃、オダネルさんの体を異変が襲います。

背骨の痛みと変形、そして皮膚ガン。

オダネルさんは、原爆による症状だと確信しました。

録音テープより・・・「体のあちこちに異変が起きた。25回も手術することになった。爆心地に送り込んでおきながら、軍は何も情報をくれなかった。かなりひどい放射能汚染があったというのに、何も知らないまま、とてもたくさんの時間、長崎の爆心地にいた」

オダネルさんは、原爆による被害だとアメリカ政府に補償を求めましたが、その訴えは却下されました。



1990年、オダネルさんは長崎の写真を引き延ばし、アメリカの各地で写真展を試みました。

しかし、原爆の写真を受け入れる施設は、殆どありませんでした。

本に掲載してもらおうと、全米の出版社を回りましたが、回った35社全てに断られました。

終戦から50年目の1995年、スミソニアン航空宇宙博物館でようやく決まった写真展も、地元の退役軍人の激しい反対で中止に追い込まれました。

家には嫌がらせの手紙が来るようになり、地元の新聞には、オダネルさんを批判する投書も目立つようになりました。

幸せだった家族は、トランクを開けてから一気に崩壊し、妻のエレンさんは、夫の行動を理解できずに離婚しました。

母国であるアメリカで、オダネルさんは孤立を深めていきました。

録音テープより・・・「どうか誤解しないで欲しい。私はアメリカ人だ。アメリカを愛しているし、国の為に戦った。しかし、母国の過ちを、無かったことにできなかった。退役軍人は、私のことを理解してくれないだろう。私は、あの場所に居て、死の灰の上を歩き、この目で惨状を見たのだ。しかし、あの小さな子供達が、何かしただろうか。戦争に勝つ為に、本当に彼らの母親を殺す必要があっただろうか。それは、100年経っても間違いであり続ける。絶対に間違っている。絶対に。歴史はくり返すと言うが、くり返してはいけない歴史もあるはずだ」



オダネルさんは、70歳を過ぎてから、日本でも写真を公開し、体験を語る活動を始めました。

そして、オダネルさんは長崎を訪れ際、以前に撮影した被爆者との再会を果たしていました。

救護所で見た背中が真っ赤に焼きただれていた少年は、幸いにも一命を取り留めていたのです。

オダネルさんは、その少年だった谷口稜嘩(すみてる)さんと10年に渡って交流し、共に日本で原爆の過ちを訴えて回りました。

谷口さん自身も、原爆投下後の地獄を語ることを「生かされた者」の使命として背負い続けました。

2010年には、被爆者代表として出席したニューヨークの核拡散防止条約再検討会議において、各国代表の前で「真っ赤な背中の少年」と題された自身の写真を掲げ、原爆の恐ろしさを訴えました。

オダネルさんが最も気にかけていたのは、「焼き場に立つ少年」でした。

谷口さんと同じように再会できないかと、日本で写真展を開きながら、オダネルさんは少年の行方を探し続けたといいます。

録音テープより・・・「私は、少年を必死に捜した。日本の新聞にも『この少年を知りませんか』と載せてもらった。少年は、あの後、一人で生きていったのだろうか。ついに、彼に会うことができなかった」



日本とアメリカを行き来する生活する中で、オダネルさんの病状は悪化していきました。

背骨の痛みは深刻になり、皮膚ガンは全身に転移していました。

そして2007年の夏、ジョー・オダネルさんは、85歳で息を引き取りました。

その日は奇しくも、長崎に原爆が落ちたのと同じ「8月9日」でした。

残されたテープを聞いていく中で、息子のタイグさんは、父の思いを知ることになります。

録音テープより・・・「アメリカ人が好むと好まざるとに関わらず、8月6日と9日は毎年やって来る。嫌がらせの手紙や投稿が、どんどん集まってくる。『お前は裏切り者だ』、『アメリカが嫌なら日本に行け』と。ある時、娘が教えてくれた。『お父さんの活動に、味方する投稿が一つだけあるよ。それはとってもポジティブな内容で、お父さんは正しいことをしたって言ってる』と。その投稿は、私への批判の声に、反論してくれていたのだ。『オダネルを批判する人達に言いたい。まず図書館に行け。私がしたように。原爆とは何だったのか、何をしたのか、図書館に行って、歴史を勉強してから批判しろ。図書館に行け。あなた方は教えを受けるだろう』 私はそれを読み、こりゃ素晴らしいと思い、名前を見ると、それは私の息子だった。息子が、私が日本に居た時と同じ、23歳の頃だった。その後、息子はこう言ってくれた。『50年経って、僕がお父さんくらいになったら、僕が日本に行って、お父さんのやろうとしたことを引き継ぐよ。平和の為に、命をかけて、写真を伝えていくよ』」

息子のタイグさんは「僕は、父の苦しみを理解しきれていなかった。父の写真は、アメリカに複雑な感情を抱かせる。けれど父は、目撃してしまった。その記憶に突き動かされたのだ。もしあの頃に戻れるなら、父の支えになってあげたかった」と語っています。

母国アメリカに、原爆投下の意味を問い続けた父。

その遺志を汲み、タイグさんは、全米に向けて父の写真を公開しました。

写真に、批判の声が集まり始めます。

「広島と長崎への原爆投下は、必要だった」、「謝る必要なんてない」・・・

しかし、父の時代には見られなかった声も、寄せられています。

「長崎の少年を見ました。悲しみに耐えている姿に、胸が締めつけられました。原爆の写真で、こんなに心を動かされたことはありませんでした」

イラク帰還兵からは「この写真は、戦争の現実を伝えている。もしこれがイラクで写された写真だったら、アメリカ人は、イラクへの駐留を考え直したかもしれない」

写真を公開して8ヵ月、タイグさんの元に、思いがけない人から意見が届きました。

母のエレンさんからでした。

離婚して13年、父との連絡を絶っていた母が、その胸の内を語っていました。

「お父さんの写真のことで、忙しくしていると聞きました。私は、ジョーが亡くなってから、彼の行動の意味を考えています。しかし、私にはまだ、ジョーが何故トランクを開け、母国を告発したのか解らないままです。ただ、これだけは確かです。彼の写真が、多くの人に影響を与えていること。そして、その写真を引き継いだあなたを、ジョーが誇りに思っていることです」



ジョー・オダネルさんの死から1年たった夏、長崎の原爆資料館で初の写真展が開催されました。

遺族として招かれたタイグさんは、会場で谷口稜嘩さんと初めて会うことができました。

谷口さんが「今現在の背中です。新しいあとは、去年手術したんです」と、自分の背中を見せてくれました。

タイグさんは遊んでいる子供達にカメラを向けながら「父は死ぬ前に言っていました。『あの日の長崎には笑顔が無かった』と。『いつか長崎で、笑顔の子供を撮りたい』と。それに応えたいと思ったんです」と語りました。

原爆を目撃してしまったアメリカ人のカメラマンが、苦しみの末に封印を解いた長崎。

30枚の写真は、今もなお、核の脅威に揺れる現代に、戦争の現実と、それを伝え続ける尊さを訴えています。

録音テープより・・・「たとえ小さな石であっても、池に投げ入れたら、波紋は広がっていく。それは少しずつ広がり、いつか陸に届くはずだ。アメリカという陸にも、届く日が来る。誰かが続いてくれれば、波紋はさらに広がっていく。そしていつか、誰もが平和を実感できる日が来ると、信じている」




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原爆の過ちを訴え続けた米国人(2)



オダネルさんは、軍隊で使っていたトランクを屋根裏部屋に置き、家族には「絶対に開けるな」と告げていました。

しかし、アメリカに帰国してから43年後、オダネルさんが67歳の時、突然トランクを開けたといいます。

トランクの中には、軍の規則に違反して撮影された、長崎の写真が隠されていました。

残された30枚のネガには、破壊された長崎の町と、瓦礫の中で生きる日本人の姿がとらえられていました。

トランクの中には、写真と共にオダネルさんの声が録音されたテープが入っていました。

録音テープより・・・「突然の日本軍による真珠湾攻撃。私は復讐心に燃え、海兵隊に志願した。日本人に怒り、日本人を殺す為に、軍隊に入ったのだ。」

19歳の冬、海兵隊に入隊し、写真記録班に配属されました。

1945年8月、初めて原爆投下のニュースを聞いた時の心境を、オダネルさんは手記に残していました。

「新型兵器が日本に落とされた。10万人くらい死んだらしい。はじめは、あのクソったれ日本人との対決を鼓舞するプロパガンダかと思ったが、本当らしい。とにかくこれで、戦争は終わりだ」

そして録音テープには・・・「アメリカは、きのこ雲を見て、戦争は終ったと思っていた。でもそれは、この50年に渡る、生き残った日本人にとっての苦しみの始まりだったのだ」



録音テープより・・・「多くの子供が、戦場か原爆で、親を亡くしていた。生き延びた子供は、幼い弟や妹を、親代わりとなって支えていた」



オダネルさんが出会った、幼い兄弟です。

瓦礫の中にたたずむ3人に、オダネルさんは、持っていたリンゴをあげました。

録音テープより・・・「年上の子供が、私の手からリンゴをもぎ取った。彼らは飢えていた。3人で分け、皮どころか、芯まで食べ尽くした」



日本人の撮影を続けていたオダネルさんは、被爆者が治療を受ける救護所へ向かいました。

オダネルさんは、そこで出会った一人の被爆者について語っています。

録音テープより・・・「私が見たその人は、これまで出会った怪我人と全く違っていた。彼には髪の毛が無かった。眉も鼻も耳も無かった。顔といえる原型はなく、肉の塊だった。彼は私にこう言った。『あなたは敵でしょう。殺してください』  私は逃げるように彼から離れ、別の患者に向き直った。部屋を去る時、再び彼を見た。まだ『殺してくれ』と言っていた。自分にできることなど何も無かった。その時、肉の塊にしか見えなかった彼の両目から、涙が流れていた」

その夜、「あの被爆者はどうなったのか?」と考えると、オダネルさんは眠ることができませんでした。

翌日、救護所を訪ねると、ベッドにその被爆者の姿はありませんでした。

録音テープより・・・「この世のものとは思えないものを見た。それは本当に酷かった。死んだ人、子供達、その母親、間もなく死ぬ人、飢えている人、そして原爆症・・・。あまりにも多くの傷ついた人々を撮影している内に、日本人に持っていた憎しみが消えていった。憎しみから哀れみに変わった。何故、人間が、同じ人間に、こんな恐ろしいことをしてしまったのか。私には理解できない」



爆心地周辺、オダネルさんが、最も多く撮影した場所です。

廃墟の町を見下ろす丘に、辛うじて建つ建物がありました。

浦上天主堂です。

原爆投下によって、8500人もの信者が、長崎で亡くなりました。



長崎を南北に貫く浦上川。

そのほとりに降りて行ったオダネルさんは、生涯忘れられない光景と出会います。

白いマスクをかけた男達が目に入りました。

男達は、60cm程の深さに掘った穴のそばで、作業をしていました。

荷車に山積みにした死体を、石灰の燃える穴の中に、次々と入れていたのです。

そこは、臨時の焼き場(火葬場)でした。

そして、焼け野原の中を、10歳ぐらいの少年が歩いてくるのが目に入りました。

おんぶ紐をたすきにかけて、幼子を背負っていました。

しかも裸足でした。

少年は、焼き場のそばまで来ると、硬い表情で立ち尽くしています。

背中の赤ん坊は、ぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。

少年は、まるで敬礼をしているかのように、黙って立っていました。

白いマスクの男達が少年に近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。

この時、オダネルさんは、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。

男達は、幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

それから、まばゆい程の炎が、さっと舞い立ちました。

真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年の、まだあどけない頬を赤く照らしました。

その時、オダネルさんは、炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気付きました。

少年が、あまりにきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま、焼き場を去って行きました。



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原爆の過ちを訴え続けた米国人(1)



先日、テレビで紹介された一枚の写真を見て、大きな衝撃を受けました。

第二次世界大戦の末期、長崎に原爆が投下された直後に撮影された「焼き場に立つ少年」と題された写真です。

幼い弟を背負い、直立不動の姿勢でいる少年の写真です。



ローマ法王は、同じ写真をカードにし、関係者に配布されたといいます。

前皇后陛下の美智子様も、2007年のお誕生日を迎えての会見で 「一番印象に残ったこと」という質問に対して、同年に亡くなった一人のカメラマンと、一枚の写真(焼き場に立つ少年)について述べられたといいます。



上の写真は、1945年8月9日に長崎市に投下された原子爆弾の「きのこ雲」です。

この原子爆弾の投下によって、3万9千~8万人が亡くなったと言われていますが、実際には正確な人数が判っていません。

直後に亡くなった人もいるし、何年もあとに亡くなられる人もおられるからでしょうか。



「焼き場に立つ少年」と題された写真を撮影したのは、米国人のジョー・オダネルという人物です。

オダネルさんは、日本による真珠湾攻撃を受け、 「日本憎し!」という思いで米軍に入隊しました。

終戦から1か月が過ぎた9月22日、オダネルさんは海兵隊の空爆調査団・公式カメラマンとして長崎入りしました。

オダネルさんに与えられた任務は、原爆の破壊力を記録することでした。

この時、オダネルさんは、軍のカメラで決められた対象物だけを撮影することが求められましたが、ある理由から命令に背き、密かに自分のカメラでも30枚の写真を撮影しました。

しかし、その写真はオダネルさんの肉声が録音されたテープと共にトランクに入れられ、43年間も自宅の屋根裏部屋に封印されていました。



録音テープより・・・「昨日のことのように思い出される。1945年、私は、原爆の破壊状況を記録する任務で、長崎に入った」

長崎に足を踏み入れたオダネルさんは、その光景に衝撃を受けます。

爆心地から約1kmの三菱製鋼所では、千人を超す従業員が亡くなっていました。

爆心地から500mの鎮西学院では、130人の生徒が亡くなっていました。

原爆のことを「新型兵器」としか聞いていなかったオダネルさんにとって、目の前の現実は、想像をはるかに超えたものでした。

録音テープより・・・「私は、灰と瓦礫につまづきながら、爆心地を見渡した。衝撃的だった。そこには、人が暮らした文明の跡形も無かった。自分が地球に立っているとは思えないほどの破壊だった」

あまりの悲惨さに衝撃を受けたオダネルさんは、「許可無く日本人を撮ってはいけないという」軍の命令に背き、自分のカメラで、そこに生きる人々を密かに撮影し始めたのです。



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他にも花がいっぱい



花の都公園には、季節ごとに色々な花が咲いています。

こちらは、百日草です。



美しい花に囲まれて、ミシェルもご機嫌です



う~ん、花って綺麗だな~



こちらは、黄花コスモスです。



こちらは、有料エリアに咲いている花々です。

美しい花を見て、気持ち良く一日をスタートすることができました



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2019年ひまわり



昨日、山中湖の「花の都公園」に行ってきました。

朝の9時半に到着しましたが、夏休みと日曜日が重なったこともあって、駐車場は既に「満車」状態でした

幸い、臨時駐車場に車を駐車することができて、無事に花を見ることができました。



今は、ひまわりが満開状態です。

今年は、2週間ほど早く開花したそうです。



ひまわりがいっぱいで、まさに「夏」って感じがします

シェリーもアンジェもカリーノも見ているかな



正面に富士山が見えるのですが、昨日は雲に隠れていました。



ひまわり、綺麗ですね。

見る人に「元気」を与えてくれる花のように思います。



自動車型の自転車に乗って花を見物する家族もおられました



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2019年夏休み



今日から夏休みシーズンが始まったこともあって、別荘地も大勢のオーナーさん達が来られています。

ワンちゃん連れのオーナーさんも多く、朝の散歩では、色々なワンちゃん達に会うことができました。

お友達になった生後7か月のノーフォーク・テリアは、ミシェルを見つけると、ママさんを引っ張るようにして駆け寄ってきました



この子はワンちゃんにも人にも優しく、ミシェルのお父さんにもいっぱい甘えてくれます



8月になって晴天が続いており、この日も真っ青な空が広がっています。

雲もなく、美しい富士山が全景を見せてくれています。



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夏の花々



前庭に植わっている紫陽花です。

この紫陽花は、毎年、ブルーの花を咲かせてくれます。

しかし、この横に移植したアナベルが年々成長して広がり、今年は紫陽花を覆い尽くしてしまいました

雨が降ったあと、アナベルが少し倒れてきたので、紫陽花が顔を出すことができました



こちらは、前庭の中央部分に植わっている紫陽花です。

これは、3つの株が植わっている内の一番左側の紫陽花ですが、隣り合っている他の2株の紫陽花が紫色の花を咲かせたのに、この株だけブルーの花を咲かせました。

去年は、3株ともピンク色の花を咲かせたのに不思議です。

土壌が酸性かアルカリ性かで紫陽花の花の色が変わるという話はよく聞きますが、隣り合っている紫陽花の花の色が異なるのは不思議に思えます。



不思議と言えば、同様のことが、裏庭の土手に挿し木した紫陽花にも見られます。

去年、挿し木して22株が定着しましたが、その内、3株が花を咲かせています。

その内の2株が、綺麗なピンク色の花を咲かせてくれました。



ところが、そこから1mほど離れている株は、ブルーの花を咲かせてくれました。

同じ3種類の土を入れているのに、不思議に感じます。



ミシェルのお家には、ギボウシが10ヵ所植わっています。

その内、9か所のギボウシは普通の大きさですが、玄関の前に移植したギボウシだけが巨大になっています

特別なことはしていないのに、不思議です



数年前、お隣さんから頂いた苗を裏庭の土手部分に移植したのですが、年々増殖を続けて、かなり広がってきました

今年も綺麗なスミレ色の花が咲き始めましたが、まだまだ蕾の方が多い状況です。

満開になれば、裏庭が一気に華やかになりそうです



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テーマ : 園芸
ジャンル : 趣味・実用

広大な芝生の広場



買い物の帰りに、久し振りに芝生の広場に寄ってみました。

平日だったせいか誰もおらず、広大な芝生の広場を独占できました



いっぱい走ればいいのに、ミシェルは地面の匂いを嗅いで回るだけ

シェリー、アンジェ、カリーノが居た時は、皆で駆けっこを楽しんだのにな



空には、夏らしい雲がクッキリと浮かんでいました。



正面には富士山を間近に見ることができるのですが、この日は雲に隠れていました。



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プロフィール

カリーノパパ

Author:カリーノパパ
●シェリー(シェルティー母):
 とっても優しい理想的な家庭犬
 アンジェの母親です

2016.4.18永眠、享年15歳11ヶ月

●アンジェ(シェルティー娘):
 ボール遊びと食事が大好きです
 我が家で生まれました

2018.5.5永眠、享年14歳10ヶ月

●カリーノ(ラフコリーの女の子):
 ショードッグ
  【主なタイトル】
 JKCチャンピョン
 FCIインター・チャンピョン 
 【主な賞歴】
 2009年アジアインターBOB
 2010年ジャパンインターBOB
 2010年近畿インターBOB
 2010年東北インターBOB 
 2010年ペディグリーアワード
 【資格】
 JKC訓練資格CDⅠ

2014.12.9永眠、享年8歳5ヶ月

●ミシェル(ラフコリーの男の子):
 陽気で優しく、人が大好きです
 ショードッグ
 【主なタイトル】
 JKCチャンピョン
 【主な賞歴】
 2011年神奈川インターWD
 2014年熱海愛犬クラブ展WD
 2014年山梨東ドッグコ展WD
 2015年沼津愛犬クラブ展WD
 【資格】
 JKC訓練資格CDⅠ

●カリーノパパ(人間):
 ミシェル達のお父さん
 本職は建築家(一級建築士)
 犬、スキー、ゴルフ、車、絵画が大好き
 1974年から大手建設会社の設計部にて勤務
 1986年に海外部門に異動し、14年間海外勤務
 内13年間をロンドンにて勤務
 2012年に大手建設会社を定年退職
 同年5月から河口湖でスローライフ開始

●訪問ありがとうございます。
4頭の犬と一緒に暮らしながら、日々感じたことを綴っています。
ミシェルとミシェルのお父さんであるカリーノパパが、記事やコメントを書いています。

●コメントは、ありがたく拝見し、返信させていただきます。

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